「私は静かに退職します」~ 世界的に広がる働き方の新潮流 ~

「私は静かに退職します」~ 世界的に広がる働き方の新潮流 ~
2025年5月9日

「今日は定時で失礼します。業務は完了しました。」

ビジネスチャットにこのメッセージを残し、かつての”仕事人間”と評されていた同僚が颯爽と退社していく姿を見かけました。最近、彼女は時間外のメールにも即座に反応せず、休日の業務連絡にも応じなくなりました。

「最近、働き方が変わりましたね」と尋ねると、彼女は穏やかな表情で答えました。

「実は『静かな退職』という考え方を取り入れているんです。Quiet Quittingというコンセプトをご存知ですか?」

「静かな退職」という新たな労働観の潮流

「静かな退職(Quiet Quitting)」。このビジネスコンセプトをご存知でしょうか。

これは、2022年にアメリカのキャリアコーチが提唱した「Quiet Quitting」の和訳です。会社を退職する意向はないものの、昇進を目指して過剰に働くことはせず、契約上求められる業務のみを遂行する働き方を指します。実際に離職するわけではありませんが、心理的には「退職したような姿勢」で業務に臨むことから「静かな退職」と呼ばれています。

「Work is not your life(仕事が人生のすべてではない)」——このメッセージが、特にZ世代(1990年代半ばから2010年代初頭生まれ)を中心に共感を集め、新しいワークスタイルとして国際的に認知されています。

興味深いことに、この働き方は日本国内でも確実に浸透しています。2024年7月にアクシス株式会社が実施した調査では、日本の就業経験者の約6割が「自分は『静かな退職』を実践している」と認識しているという結果が出ています。

この数値は、日本の働き方に大きな変化が起きていることを示唆しているのではないでしょうか。

日本人の働き方の変容

「将来的に管理職に就くことを希望しない」

令和4年度の「新しいライフスタイル、新しい働き方を踏まえた男女共同参画推進に関する調査報告書」によれば、こうした昇進に対して消極的な姿勢を示す人が男性で56.3%、女性においては82.3%と、明らかな多数派を形成しています。

さらに、パーソルキャリア傘下のJob総研が2023年に実施した調査では、回答者全体の72.2%が「キャリアよりもプライベートを優先する」と回答。特に20代においては、46.9%とほぼ半数が「プライベート優先」の姿勢を明確にしています。

かつて「エコノミックアニマル」と称され、「24時間戦えますか」というフレーズに象徴された日本のビジネスパーソンの働き方が、このように変化しているのはなぜでしょうか。

「静かな退職」が拡大する3つの要因

グローバルスタンダードの労働観への収斂

実は、欧米諸国ではかねてから「静かな退職」に近い働き方が標準的でした。欧米では、キャリアパスにおいてエリート層と一般層が明確に区分されています。欧州諸国では職業資格と学歴によって昇進上限が早期に規定され、米国においてもシニアマネジメント層への昇進は厳選された人材に限られ、MBA保持者などが多数を占める構造となっています。

一方、日本型雇用では「大卒入社者は全員が幹部候補生として同じスタートライン」という慣行があり、「将来の役員ポジション獲得の可能性」を動機付けとして、長時間労働を促進する仕組みが存在していました。しかし、この構造が徐々に変容し、日本の労働観もグローバルスタンダードに接近しつつあります。

世論調査機関として知られる米ギャラップ社のレポートによれば、世界の労働者の約6割が「静かな退職」的な働き方を選択しているとされています。特筆すべきは、日本においては約7割の労働者が「静かな退職」に相当する働き方をしていると分析されている点です。皮肉なことに、かつて「働きすぎ」と国際的に認識されていた日本が、現在では「エンゲージメントの低さ」という別の側面を持ち始めています。

ワークライフバランスの優先順位向上

「業務外の社内コミュニケーションは最小限に抑え、個人の生活の充実を図りたい」

この価値観は特に若年層において顕著です。ビジネスとプライベートの境界を明確に設定し、「職務は職務として割り切る」という姿勢が広まっています。

新型コロナウイルス感染症の影響でリモートワークが一般化したことも、こうした価値観のシフトを加速させました。自宅での業務遂行を経験したことで私生活の価値を再評価し、より生活の質を重視するワークスタイルを求める社会人が増加傾向にあります。

終身雇用モデルの変容

日本の雇用基盤を長年支えてきた終身雇用制度は実質的な転換期を迎え、「企業への貢献が将来的に報われる」という信頼感が希薄化しています。年功序列システムも実質的な機能低下が進み、努力と評価の相関性に疑問を感じる従業員が増加しています。

「組織への献身が、必ずしも将来的な保障につながらない」という認識が広まるなか、「自己のキャリアは自己責任で構築する」という意識が強化され、企業への過剰なコミットメントや業務範囲を超えた貢献に対して慎重な姿勢が広まっています。

「静かな退職」は単なる業務怠慢なのか

「これは実質的には業務放棄ではないでしょうか」

「静かな退職」というコンセプトに対し、こうした反応を示す管理職やシニア層は少なくありません。確かに、一部には職務遂行を適切に行わない「業務怠慢」も存在する可能性があります。

しかし、「静かな退職」を実践している多くのビジネスパーソンは、求められる職務・責任範囲については確実に遂行しています。彼らが回避しているのは、職務範囲を超えた過剰な貢献や時間外労働なのです。

ビジネスシーンでの例えとしては、プロジェクトにおいて自分の担当範囲は確実に完遂するものの、他部署の業務を自発的に引き受けたり、期限前倒しのためにプライベートの時間を犠牲にするといった行動は控えるというスタンスです。

注目すべきは、「静かな退職」を批判する見解の多くが、職務範囲外の自己犠牲や長時間労働を暗黙の前提とする従来型の価値観に基づいている点です。この現象は「キャリアに人生を捧げる」という考え方から、「人生の質を高めるための一要素としてキャリアを位置づける」という価値観へのパラダイムシフトを反映しています。

日本における「静かな退職」の現状

「静かな退職」という用語自体は、現時点で日本国内では十分な認知度を獲得していません。アクシス株式会社の市場調査によれば、「静かな退職」という概念を認識している回答者は31%、聞いたことはあるが詳細を理解していないとする回答者が17%、全く認知していない回答者が52%という結果が示されています。

しかしながら、この概念への認知度に関わらず、実質的に「静かな退職」に該当する働き方を実践している人材は相当数存在します。同調査では、回答者の約6割が「自身は『静かな退職』の状態にある」と自己認識しているという注目すべき結果が出ています。

特に重要な知見は、この傾向がZ世代に限定されず、30代・40代・50代といった中堅・ベテラン層にも拡大している点です。世代を超えて「キャリアと生活の関係性」に対する価値観が変容しており、当初「Z世代特有」と見なされていた「過剰労働を回避する働き方」が全世代的な現象として浸透している可能性が指摘されています。

2024年12月に発表された「働きがいのある会社研究所」の調査では、20~59歳の企業従業員のうち2.8%が「静かな退職」状態にあるとされ、特に40~44歳の層では5.6%と全体平均の2倍に達しているというデータも報告されています。この数値は前年比0.4ポイント増加しており、明確な上昇トレンドを示しています。

企業経営への影響と対応

企業経営の観点から見ると、「静かな退職」現象の拡大は、単なる個人の労働姿勢の変化を超えた経営課題としての側面を持ちます。ギャラップ社の分析によれば、従業員エンゲージメントの低下がもたらす経済的損失は、世界全体でGDPの9%に相当する約1400兆円規模と試算されています。

ビジネス環境において予期せぬ課題が発生した場合、従業員が職務範囲を超えて相互支援することで問題解決に至るケースは少なくありません。しかし、「静かな退職」実践者が増加すると、そうした組織的な柔軟性が低下するリスクが高まります。

注目すべき研究結果として、米人材コンサルティング会社の調査では「部下からの評価が最上位10%に入る管理職のチームでは『静かな退職』者の割合が3%に留まるのに対し、評価が最下位10%の管理職のチームでは14%に達する」という相関関係が明らかになっています。これは、マネジメントの質と「静かな退職」の発生率に明確な関連性があることを示唆しています。

企業に求められるアプローチは、「静かな退職」を単に否定的に捉えるのではなく、多様な働き方を尊重しながら組織エンゲージメントを向上させる戦略的施策の実施です。具体的な対応策としては以下が考えられます。

  1. 成果に基づく透明性の高い評価・報酬システムの構築
  2. ワークライフインテグレーションを促進する制度的基盤の整備
  3. マネジメント層のリーダーシップ開発とコミュニケーション能力の強化
  4. 個人のライフステージに対応した多様な就労形態の整備

こうした包括的なアプローチにより、「静かな退職」という現象を組織の活性化につなげる変革も可能になると考えられます。

価値観のギャップを克服するために

「近年の若手社員は従来と異なる傾向を示している…」

こうした認識は各時代の組織において普遍的に見られるものですが、現代における世代間の価値観の差異は、単なる世代批判では解決できない構造的な背景を持っています。

Z世代が形成された社会・経済環境は、バブル経済やその後の高度経済成長を経験した世代とは本質的に異なります。人口動態の変化、少子高齢社会の進行、デジタルトランスフォーメーションの加速、そして従来型雇用システムの転換といった社会構造の変化の中で、彼らは自らのキャリア観・就労観を独自に構築しています。

組織マネジメントにおいては、こうした世代間の価値観の多様性を認識し、相互理解と尊重に基づくコミュニケーションを促進することが、組織の一体感醸成と生産性向上の鍵となるでしょう。

「静かな退職」現象の今後と労働市場への影響

「静かな退職」は一過性のワークスタイルトレンドなのか、あるいは労働市場の構造的変革の序章なのか。現時点での分析からは、この潮流が中長期的に継続・拡大する可能性が高いと考えられます。

2025年には団塊世代全員が75歳以上となる「2025年問題」、さらに2030年には国内人口の約3人に1人が65歳以上となる「2030年問題」と、日本社会は急速な人口構造の変化に直面しています。労働力人口の減少と人材獲得競争の激化が予想される中、企業は優秀な人材を確保するために、多様な働き方やライフスタイルに対応したワークスタイルの柔軟化を進めざるを得ない状況になると予測されます。

また、デジタルトランスフォーメーションの進展とAIテクノロジーの発展により、定型的業務の自動化が加速し、人間にしか担えない創造的業務や対人サービスの価値が相対的に向上する可能性があります。こうした環境変化は、単純な労働時間の長さではなく、創出される価値の質が評価される労働市場への移行を促進し、「静かな退職」の考え方と親和性の高い評価体系への移行を後押しする可能性があります。

「静かな退職」- 職場における模索

「静かな退職」という言葉には、一見後ろ向きなニュアンスが含まれています。しかし、その本質は「過剰労働からの脱却」「ワークライフインテグレーションの実現」「キャリア自律性の確立」という、むしろポジティブな価値観の表出とも解釈できます。

米バージニア大学ダーデン経営大学院のジェームズ・ディタート教授は、「静かな退職」という概念にネガティブな意味合いを付与することに疑問を呈し、代替として「調節済みの貢献者(calibrated contributors)」という表現を提案しています。これは、提供される対価と自らの貢献のバランスを合理的に調整する社会人という意味合いです。

ビジネス環境において、「静かな退職」を単なる消極的姿勢と位置づけるのではなく、多様な働き方の一形態として受容し、個人と組織の双方にとって持続可能な関係構築の方向性を検討することが建設的なアプローチと言えるでしょう。

持続可能な組織づくりに向けて

「職務範囲を遵守し、過剰なコミットメントは回避する。」

この姿勢は、単なる若年層の価値観の変化にとどまらず、社会構造の変容に伴う労働観の再定義の一側面と捉えることができます。かつての「猛烈社員」として称えられた働き方も、当時の社会経済環境や価値体系の中で形成されたものでした。

昭和から平成、そして令和へと時代が移行する中で、私たちの社会は大きな変革を遂げています。働き方の変容もその必然的帰結と言えるでしょう。

「静かな退職」という概念の評価はさておき、各ビジネスパーソンが自分自身のキャリア観とライフスタイルの調和点を見出し、仕事と私生活の適切なバランスを確立しながら、持続可能な社会・組織の構築に貢献していくことが今後ますます重要になるでしょう。

企業と個人の双方にとって、「静かな退職」という現象は、真に価値を創出する仕事とは何か、充実したキャリアと人生のあり方について再考する貴重な機会を提供しているのかもしれません。

ある中堅ビジネスパーソンは次のように述べています。

「『静かな退職』を実践してから、むしろ自分の業務への集中力と貢献度が高まったと感じています。限られた時間で最大の成果を出すことに意識が向き、結果的にパフォーマンスが向上しました。」

この新たな働き方のバランスについて、皆様はどのようにお考えでしょうか。

参照:
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000045.000028179.html
https://www.hrpro.co.jp/trend_news.php?news_no=3457
https://news.yahoo.co.jp/articles/5413cfeb96b0940b38c1545d8aa3434e9327cf4b
https://blogs.ricoh.co.jp/RISB/workingstyle/post_911.html
https://jinjibu.jp/keyword/detl/1556/
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC04AGR0U5A300C2000000/